Mail magazine special contents vol.54

ジン温故知新第11回

203.TI.AR

 皆さまお元気ですか?今回もお付き合いのほど宜しくお願いします。今回ご紹介するモデルはダイバーズクロノグラフ「203.TI.AR」です。1994年、創業者のヘルムート・ジン氏が78歳を機に引退を決意し、ジンを託したのがかねてから親交のあった現社長のローター・シュミットです。それまで彼はスイスの有名時計ブランドで主にケース開発に手腕を振るっていました。過去に「本当は車会社を買いたかったが、お金が無かったので時計会社を買った」と得意のジョークを聞いた事があります(多分本心です)。

203.TI.AR

 また、ジンに来た理由の一つに「大きな会社の中にいると自分が作りたい物が作れなかった。それがジンでは実現できる」とも話していたのを覚えています。その手腕は直ぐに発揮され就任して直ぐに今でもジンの銘機の一つと言われる「モデル244」が発表されました(244は次回ご紹介します)。そして1995年に発表されたのが「203.TI.AR」です。ジンでは時計作りという観点からではなく、機構、素材、物理、化学的な観点から時計を見るというこれまでの時計業界では注目されなかった、と言うよりも気づかなかった異業種の技術を導入し、全く新しい技術(ジン・テクノロジー)を完成させ、その要求に応えられる時計作りを可能にしました。「自分が作りたかったものを作る」それを体現したのです。203はジン・テクノロジーの代表的なArドライテクノロジー(ドライカプセルと特殊ガス)を最初に搭載したモデルでもあります。

Arドライテクノロジー

 それではArドライテクノロジーのドライカプセルと特殊ガスについてお話しします。時計ケースは十分乾燥した環境で裏蓋を閉め密閉されますが、封印された空気中にはわずかではありますが水蒸気が含まれています。この水蒸気は私たちの体温や時計がさらされている外気温(特にダイバーウォッチのように水中につけられるというような)の急激な温度変化によってミクロではありますがムーブメントの金属表面に結露します。これが、長い年月の間に腐食を進行させます。現在時計に使用されている潤滑オイルはその性質上水分(水蒸気)を吸収する特性があります。オイルは水分を吸収すると粘性が高くなり、その刻時精度が悪くなるのです。そのため、オーバーホールと呼ばれる、古くなったオイルを取り除き新しくオイリングするという作業をしなければならないのです。

 そこで可能なかぎり空気中の水蒸気を排除するためにドライカプセルを開発したのです。ご存知のように、食品などにシリカゲルと呼ばれる乾燥剤が使用されています。ドライカプセルはこれと全く同じと考えてよいもので、時計のケース内を乾燥した状態に保つものです。

Arドライテクノロジー
Arドライテクノロジー

 203のドライカプセルはケースの7時と8時位置の間に外側からねじ込み式で挿入され、ケース内側の先端には水分を通し放出することがない半透度のフィルタがつけられており、ケース外側の一端にはサファイアクリスタルがはめ込まれています。使用されている乾燥剤は水分を吸収すると青く変色する特性を持っており、何らかの事故で万ーケース内に水分が侵入した際にもその色の変化で確認できるようになっております。ドライカプセルは約4mgまでの水分を吸収することができ、可能なかぎりケース内を乾燥した状態に保ち、刻時精度を安定させるとともにオーバーホールの期間を長くすることを可能にしました。

203.TI.AR

 次に特殊ガスの充填についてですが、皆さんご存じの通り、機械式腕時計は巻上げられたゼンマイのエネルギーによってテンプが振動することによって時刻を刻む仕組みとなっております。このテンプは1時間に28,800回もの高速で往復振動を行っています。テンプの軸は金属で作られ、それを受ける軸受けの多くはルビーが使用されています。これら二つの部品は常に擦りあった形で接触しているため、よりスムーズに回転するようにオイル状の潤滑剤が使用されています。ルビーの中にはその赤い色を発色する役目を果たすクロム金属元素が含まれています。したがってルビーはわずかではありますが、電気を帯びる性質をもっていることになります。軸と軸受けは高速で擦れ合いわずかに静電気を発生しています。オイルは基本的には電気を通さない絶縁体ですがケース内の水分を吸収することにより絶縁性能が悪化してきます。これにより、軸と軸受けの間で放電が起こり、空気中の酸素や窒素などの不安定ガスや水蒸気が化学反応を起こし、放電腐食という現象が起こります。そのため、長年にわたって軸は腐食し、テンプの振幅が小さくなり、振動が不安定になり、刻時精度が悪化し、最後には止まってしまうということにもなります。この現象を排除するために、希ガスといわれる極めて安定した特殊ガスを充填し放電腐食が起こりにくいようにしたのです。

 Arドライテクノロジーは、ムープメントに悪影響を与える要素を可能なかぎり排除するための技術なのです。その代表的なモデルがダイバークロノグラフであるモデル203.TI.ARです。いかがですか?直径40数ミリの小さなチタン製ケースの中にはここまで考え抜かれたテクノロジーが搭載されているのです。

Arドライテクノロジー
Arドライテクノロジー

 日本では発表当初、上の写真にあるような特製ボックスで発売されました。ボックス内部には時計本体とスペアのシャークスキンベルト、バネ棒外しが付属されていました。

Arドライテクノロジー
Arドライテクノロジー

 そして特徴的なのはドライカプセル本体と時計に搭載されたドライカプセルの水分の吸収状態がわかるカラーチャートも付属されていました。

Arドライテクノロジー

 ダイヤルデザインは典型的な「ジンの顔」をしています。最初のロットにはインデックスにトリチウムが使用されておりそれを表すTマークとSWISS MADEが入っていました。後にインデックスはルミノバに変更されこれらのマークも入らなくなりました。またArドライテクノロジーをシンボライズしたArマークがレッドカラーで描かれています。他のモデルにも見られるようにシンボライズマークを赤色でダイヤルに描くのはこの203から始まりました。

Arドライテクノロジー

 ジンの顔とも言えるダイヤルについて過去にシュミット氏に「ジンの時計やクロノグラフは、非常にシンブルなダイヤルデザインで機能的なものが多く同じような外見の時計が多く見られます。これについてはどのようにお考えですか?」と聞いた事があります。ちょっと聞きにくい質問でしたが、思い切って聞いてみました。その答えは次のようなものでした。

 「時計を作っていく上で最も重要なことは、その時計がどのような目的で、どのように使われるかということです。これは、突き詰めていけばどのモデルもほぼ同じ結論に達します。言い換えれば、本当に機能的な時計というのは一つしかないということです。そのため、ケースなど多少の違いはあっても基本的には同じなのです。そのために外観上は同じような時計に見えてしまうのだと思います。でも良く見て下さい。ダイヤルは似ていても実際に時計になった時、同じ時計に見えますか?」「はい。おっしゃる通りです」

ジン特殊オイル66−228

 使用されているムーブメントはETA社のヴァルジュー7750です。ニヴァロックスのクラス1ヒゲゼンマイやグリュシデュール製テンプ、ベリリウムプレートなど一般的な7750では使用されない高品質パーツを組み込んだ特別仕様になっています。クロノメーターに匹敵するほどの精度も備えています。
 そしてジン社が独自に開発したマイナス45℃からプラス80℃までの温度範囲でムーブメントの機能を確実にサポートするムーブメント用のジン特殊オイル66−228を最初に使用したのもこの203.TI.ARです。

 いかがでした?今回は少し技術的なお話しになってしまいました。すみません。本当はもっとお話ししたい事や裏話もありますが、それらはまた次回にしたいと思います。今回も最後までありがとうございました。
 またお会いしましょう。